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2014年9月14日日曜日

ありのままの世界

この世界のあらゆるものは、互いに依存しあって存在している。何ひとつとしてそれだけで孤立しているものはない。だから、この現象の世界には、そのものという固定した実体をもつものなど、一つもないのである。

ところが、私たちは言葉を使ってこの現象の世界に名前をあたえようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私であるというように。そのこと自体はこの現象の世界にあらわれている、ありのままの差異をとらえようとする根源的智慧の働きのあらわれであると考えることができる

しかし、いったん名前があたえられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体をもっているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくとも、それが心にひらめいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏み込んでしまう。でも固定した「私」なんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるというのだろう。


言葉や観念は私たちをとらえて、ありのままの世界とはちがう、こわばった世界をつくりあげる力をもっている。私たちはそこで固定した「私」に執着するようになる。「私」が年老いて死んでいくことを、恐いと思うようになる。愛していたものが消えていくことを深く悲しむ。

でもそれは、ありのままの世界に素手でふれあうことができず、夢や幻影のような観念の世界にとらわれていることから起こる恐れであり、悲しみである。この幻影のベールをとりのぞくことができた時、私たちの前には、つねに動いてやむことのない、ありのままの世界の壮大な光景がたちあらわれてくる。そこには限りない喜びがあふれている。

―ラマ・ケツン・サンポ

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