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2012年4月30日月曜日

君の罪など小さい、小さい。それなのにこんなに意気消沈して!

神に呼びかけなさい。『彼』は君に、弱さを乗り越え、迷いを破壊する強さを与えてくださるだろう。 『彼』は情け深いお方だ。君の罪がどんなに大きかろうと、『彼』の慈悲の流れが君を避けるようなことはない。君の罪など小さい、小さい。それなのにこんなに意気消沈して! アジャミラとヴァールミキのことを考えてごらん。彼らの罪に比べれば、君の罪はなんでもない。

ブラザー・ヴィヴェーカーナンダがよく言っていたことを知っているかい? 
「体についたインクの小さなしみを思い煩うな。それはなんでもないのだ。神の無限の慈悲の海で浴すれば、千のインク染みが洗い流されるだろう」と。

だから言うのだ、嘆くなと。
休みなく祈りなさい。君の悪い性質はじきになくなるだろう。

-アドブターナンダ

クリシュナクリシュナ

去年の8月にインドの聖地を巡ってきて、一番感動した場所を動画にしてみました。
至高者クリシュナの遊んだ場所であろう、ヤムナー川周辺です。

マトゥラーからブリンダーバンに戻るバスの中では、「クリシュナクリシュナ」を口ずさんでいたのだけれど、バスと同じ速さでかけっこしているクリシュナと、バララーマが見えた気がして、その後涙が出てきました。

私の心の奥深くに、ブリンダーバンがあって、
そこにはクリシュナがいつも遊んでいるんですね。

この気持ち、忘れないように。






心が鈍いときは、神への賛歌を歌うことによって、心を目覚めさせなさい。
心が散漫なときは、プラーナーヤーマ、礼拝、瞑想によって、寂静に戻しなさい。
心が何かに執着しているときは、平等心と識別智によって、執着から心を引き離しなさい。

(サーダナの指針の花輪)

2012年4月29日日曜日

マハーマントラ-Mahamantra





Hare Krishna Hare Krishna
Krishna Krishna Hare Hare
Hare Rama Hare Rama
Rama Rama Hare Hare


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2012年4月28日土曜日

ラーマーヌジャの教え

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『あなたの精神的指導者を崇めなさい。そして聖者たちを崇めなさい。
過去の偉大な聖者たちの教えに、真摯な信仰を持ちなさい。
決して、感覚の奴隷になってはいけません。
世俗的な知識の収集に満足してはいけません。
神の偉大さと彼の創造物の不可思議についての本を、繰り返し読みなさい。
もし偶然にも、あなたがグルの恩寵によって智慧を輝かせることに成功したならば、感覚の対象に魅力を感じる事は絶えるでしょう。すべての感覚に無関心でいることを学びなさい。
神の御名と栄光を口にするのと同じくらい何度も、神の信者たちの名前と栄光を話すことを喜びなさい。
覚えておきなさい。神の信者に奉仕する者は、素早く神を実現するでしょう。
どんなにあなたが賢くても、神と神の信者への奉仕にあなた自身を捧げることがなければ、あなたは救われないでしょう。
決して、私欲を満たす手段としてヴィシュヌ派教団の生活を考えてはいけません。理想を実現するためだけに努力しなさい。』


『1日のうち少なくとも1時間は、あなたのグルの偉大さを瞑想しなさい。
そして毎日、アルヴァースや他の聖者たちの神聖な書物を読みなさい。
いつも、神に没頭する道を行く仲間といることを求めなさい。そして「救済に導かれる他の道があるよ」という者たちを避けなさい。
汚い金儲けや感覚の楽しみを追及する人々と関わってはいけません。
できる限り神の信者と交わりなさい。
神の神聖な像をただの石だと見る者や、彼ら自身の精神的な指導者を普通の人間と見る者、カーストの高低によって優れた信者たちを見る者、一切の罪を浄化し洗い流すパワーを持ったグルの御足に触れた神聖な水を普通の水と変わりないと言う者、神聖なマントラをただの音の集まりだという者、至高の神々の世界をデーヴァよりも高くないという者は誰でも――苦しみから救うべき者達なのだと見なしなさい。』

ラーマヌージャがこの説法を終えた時、弟子たちは、
「私たちの命がこの体から旅立つまでは、この世でどのように生きていけばいいでしょうか。もう一度お説き下さい」
とラーマヌージャにお願いしました。ラーマーヌジャはこう答えました。

『真に神の御足に自己を投げ出した者は、将来についてどんな思考も向けてはなりません。それは、全面的な彼への自己の明け渡しです
――その繋がりの中では、ほんの少しの心配でもあるならば、それは自己放棄という名の偽善的行為だとあばかれます。
人生のすべては、過去のカルマによって決定されています。――だから、それを嘆き悲しむのは適切ではありません。
あなたの義務の遂行を、現世的な目的を叶えるための手段として考えるべきではありません。それらを至高者への奉仕であると見なさい。』

『シュリーバーシャを研究し、それを他の人に教えなさい。――これが神への最大の奉仕になります。
それが可能でなければ、聖サタクローパとその他の偉大な魂が書いた聖なる書物を勉強しなさい。そして資質のある弟子に教えなさい。
それが可能でなければ、地球上にある数々の聖地で、神への奉仕にあなたの人生を費やしなさい。
そうでなければ、ヤーダヴァードリ(メールコーテー)に粗末な小屋を建て、そこで完全に平穏に暮らしなさい。
または、あなたが背負っているすべての重荷を神に手渡し、ドヴァヤマントラの瞑想に没頭して、今いるところに留まりなさい。
もしこれらの一つも実行することができないなら、智慧と信仰と無執着に満ちた聖者を探しなさい。彼に従い、彼とともに動きなさい。あなたのすべてのエゴを根こそぎ引き抜いて、彼の言葉に忠実に従いなさい。――それがあなたを救う手段なのです。』


この地上にある生命の中で、注意深い選別によって、あなたはあなたの友人と敵と無関心な相手を見分けなさい。聖者はあなたの友人です。神を嫌う人たちはあなたの敵です。現世に執着している人たちには無関心でよろしい。
良質のキンマや花や香りに出合ったときのように、あなたは友人(聖者)を目にすることを喜びなさい。
敵(神を嫌う人)を見たときには、蛇やトラや火などに出くわしたときのように恐れなさい。
無関心な者(現世に執着する人)に出会った時には、切り株や石ころを見たときのように、全く気に掛けなくてよろしい。 
そのような態度が、神に庇護を求めた者の態度です。聖者である友人とのつながりは、あなたの精神に光を与えてくれるでしょう。
敵(神を嫌う人)を避け、無関心でいるべき人(現世に執着する人)たちに関しても、彼らに話しかけないようにしなさい。現世的な利益があなたに増してしまうから、彼らに敬意を払わないようにしなさい。そのような利益は、すぐにあなたを神の敵にしてしまうだろうから。
慈悲に満ちたすべての方々は、あなたが祈るすべての事に応える準備をして、待っていらっしゃるということを覚えておきなさい。決して敵(神を嫌う人)を求めてはいけません。


ラーマーヌジャராமானுஜர்1017年 - 1137年

不断の熱意―スワーミー・シヴァーナンダ


十五年間も瞑想を続けて、何の進歩も見なかった人がいる。それはなぜか。熱心さ、離欲、強い魂の解放への欲求、そして激しい不断の修行がなかったからである。

修行者の間でも、かような不平を聞く。「私は十二年間瞑想してきたのに、何の進歩もない。悟りも開けない。」――なぜか。何が原因なのか。
それは、深い瞑想に没頭して、自分のハートの一番奥まで深めなかったからである。
正しく消化吸収して、神の思いで心を満たさなかったからである。
規則的に修行をおこなわなかったからである。
感覚器官を正しく調御しなかったからである。
心が外に出て行こうとする傾向を完全に抑えて、心を集中しなかったからである。
『今この瞬間に悟るぞ!』という強い決意がなかったからである。
心のすべてを、百パーセント神に向けなかったからである。
途切れのない油の流れのように、神の意識の流れを自分の内に増して行かなかったからである。

何年間か修行した後、進歩しているかどうかチェックしなければならない。十分注意深くしていないと、離欲が薄れ、瞑想の熱意が衰え、退歩する。後戻りする。

いつも神のことを思えば、そのうち必ず神を知る。

――スワーミー・シヴァーナンダ

「実体」は様々の名を持つ一つのもの。

ため池にはいくつかの階段がついている。その中の一つで、ヒンドゥたちは水差しに水をくみ入れてそれをジャルと呼ぶ。他の階段で、マホメット教徒たちは革袋に入れてそれをパーニと呼び、第三の階段ではキリスト教徒たちが汲んでそれをウォーターと呼ぶ。「水はジャルではない。パーニかウォーターである」などと思う事ができるか? 何という不条理なこと!

「実体」は様々の名を持つ一つのもの。そして各人が、その同一の実体を求めているのだよ。
世界中の諸宗教は、それらの階段のようなものである。どの階段でもよい、まじめに、熱意に満ちてまっすぐに降りていけ。必ず、永遠の至福という水に達するであろう。しかし、自分の宗教は他の宗教より良い、と言ってはいけない。

――ラーマクリシュナ・パラマハンサ

2012年4月27日金曜日

人は、主を忘れるからこそ、苦しむのだ。

人は、主を忘れるからこそ、苦しむのだ。
この世の不幸には様々な形がある。しかしそれらの苦しみは、まさにその性質上、永続しない。主を己のものとして受け入れることのできる者は、それほどひどく世俗の悲しみに悩まされることはない。
主をあなた自身の父親あるいは母親と考えるように努めよ。
嘆き悲しむのなら、神の前で嘆き悲しみ
主よ、信仰と献身とをお与えください。そして私にお姿をお見せください
と祈りなさい


――スワーミー・スボダーナンダ

2012年4月26日木曜日

バクティの修練から、熱意が生まれる

「クリシュナへの真の信仰は、宇宙の中で最も稀なものである。
この輪廻の中で、無数の魂が、840万もの生を通り抜けてきた。
その中には、生命体と非生命体がある。
生命体には、鳥、獣、水棲生物など無数の種類がある。その中で、人間に生まれる者は、ごくわずかである。

人間の中でも、野蛮な者や、極度に世俗的な心を持った者が、大部分を占める。
そしてわずかな人々のみが、神を思う。
神を思う者たちの中で、多くの者たちは儀式的な宗教行為に献身し、一部の者だけが叡智に献身する。
そして叡智に献身する百万人の中でも、ほんのわずかな者たちだけが解脱を得、さらに解脱を得た者の中の百万人に一人だけが、クリシュナへの真の信仰を見いだす。
ゆえに、クリシュナの真の信者は、欲望がなく、平静なのである。

他の者たちが、楽、解脱、あるいは霊的な力を切望する一方、クリシュナの信者は完全なる無私の精神で、身体、心、魂を通した心からの『彼』への奉仕のみを欲する。
単に解脱を求める者たちや、自己中心的な達成を望む者たちの心の中には、決してクリシュナへの真の愛は生まれない。

バクティの修練から、熱意が生まれるのだ

その熱意が深まると、それはプレーマと呼ばれる。」

ー「シュリー・チャイタニヤの生涯」より、チャイタニヤがルーパ・ゴースワミーに与えた教え




2012年4月24日火曜日

人生における恐怖と危難と災厄から身を守ってくれるのは




人生における恐怖と危難と災厄から身を守ってくれるのは、常に相携えて進んでいく、ただ二つの事柄だけである。――つまり「聖なる母神の恩寵」と、あなたの側での「信仰と誠実と明け渡し」である。

2012年4月22日日曜日

ラームプラサードの歌

タクル(ラーマクリシュナ)はよくこうおっしゃった。 
「音楽とは取るに足らないものかね? 渇仰の心で涙を流しながら歌うことによって、人は神を見る。」

  M自身、よくこう語っていた。 
「彼(師)は喜びの歌を歌ったり聞いたりするのがお好きであった・・・悲しみや苦しみは世俗的な存在の病である。それらを取り除くために、人は神の御名を唱え、称えるべきである。つまり人は幸せな歌――苦しみの混じらない喜びの歌――を歌うべきである。そのとき初めて人は、自身の存在の病から解放される。そのとき、三つの熱(肉体、心、そして魂)の火は静まるのだ。
  タクルはいつも喜びの歌を歌っていらっしゃった。例えば‘私から喜びを、喜びの具現化そのものであられるあなたを奪わないでおくれ!’」

  Mは歌を歌うのがすきで、師と同じように特にラームプラサードの歌をよく歌った。

「ラーマクリシュナの福音」の著者Mの短い伝記より


2012年4月19日木曜日

神と共に生きなさい―スワーミー・シヴァーナンダ


神と共に一日を始めなさい。

そして、神と共に一日を終わりなさい。

今日一日を、神と共に生きなさい。

これが、真理への道です。



――スワーミー・シヴァーナンダ

2012年4月18日水曜日

入菩提行論

私は、私自身を、勝者とブッダの子とに残り無くささげる。
衆生の最高者たちよ。私を受け入れたまえ。
私は熱烈なバクティ(信愛)をもって、あなた方の召使となる。
あなた方に受け入れられれば、それによって私は恐れるところ無く、輪廻界において衆生のためになることを行なう。
そして以前作った悪に打ち勝ち、重ねて他の悪を行なわない。

(第2章より)


汝が自己の利益を追求している間に、無量のカルパが過ぎ去った。
その大きな骨折りによって、汝はただ苦しみだけを得た。
そこで、私の懇請にしたがって、汝は遅疑なく、それ(利他行)のために身をささげよ。
それが後に有利となることを、汝は見るであろう。なぜなら、ムニ(聖者)の言葉は確かであるから。
もし過去に汝によってこの(利他の)行為がなされたならば、仏陀としての至上の安楽に達したであろう事はもちろん、かかる(惨めな)状態は現われなかったであろう。
それゆえ、無関係の赤白二滴において、汝が自我意識を構成したように、それを他人においても認識せよ。
他人のために密偵となれよ。そして、この身に何でも(有用と)認めたものがあれば、その一つ一つを取り出して、他人のためになることを行なえ。
(第8章より)


自我を楽から振り放せよ。そして他人の苦しみに当たらせよ。
「この者がいつ何をなすか」と、この者の欺瞞を省察せよ。
他人によってなされた過失までも、この者の頭上に落ちさせよ。この者の過失は、わずかであっても、マハーム二(大聖者)の前に明らかにせよ。

他人の大きな名声を称えて、この者の名声を曇らせよ。卑しい奴隷のように、衆生の用にこの者を供えよ。
この者は過失に満ちている。だから偶発的なわずかの徳でほめるに値しない。この者の徳を誰も認識しないようになすべきである。

要するに、自我のために汝が他人を害した――その害悪の一つ一つを、衆生を利益するために、自我にこうむらせよ。

この者に饒舌【じょうぜつ】となるような力を与えるな。恥じらい深く、臆病に、内気に、花嫁のような状態にあらしむべきである。
「かようになせ、かく振舞え、これをなすな」と、かようにこの者を汝の支配下に置くべきである。そして命令に背くときは、罰すべきである。
(第8章より)


2012年4月15日日曜日

ささげる瞑想

最近私は風邪を引いて、なかなか回復しなくて、免疫力を高めようとネットで調べ、免疫を高める食事をしようと試みていた。

もともとの私の食事は、昼は卵サンドイッチ、夜は納豆ソバかラーメンサラダであり、私の体は主に

・卵
・小麦粉
・大豆

でできているんじゃないかと思われ、風邪がなかなかな直らないと、さすがに栄養が足りてないかな?と気になったのだ。

そこでレバーの甘露煮を作って食べていたが、調理する過程で
「レバーに真我がいたらどうしよう?」
と気になった。

でも先生に質問して、真我は心臓に宿っているということと、そもそも健康に執着していたなーと気づいた。
風邪になったとしても、病気になったとしても神が与えたので、喜んで受けようとバクティ的発想になった。

そういえば、最近ささげる瞑想をしていなかったので、またささげる瞑想を始めた。

以前、あらゆる執着しているものをささげる瞑想をしていた時があり、自分が執着しているものの他に、見た景色もささげていたら、ある日、札幌の冬の曇り空の町が「キラキラフィルター」を通したように、町がキラキラして見えたことがあった!
とても綺麗だった。

最終的には、「私」も神にささげていきたい。


神にささげる生け贄。


2012年4月2日月曜日

チャーンドーギャ・ウパニシャッド

人間は、意志を本質とするものである。
すなわち、人間は、死後、彼がこの世において意志したとおりになるのである。
だから人間は、善き志を持たねばならない。

――チャーンドーギャ・ウパニシャッド

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